「映画監督とぶらり!まち歩き」登場監督へのインタビュー(監督鼎談篇)

 

ページ番号1006967  更新日 平成29年12月4日 印刷 

出演頂いた監督達に、実際に福生のまち歩きをして頂き、撮影に関するエピソードや福生での思い出を語って頂きました。こちらは3名の監督に福生のまちを見た感想と、ロケ地としての福生の魅力やロケ地に関する想いを語って頂きました。ぜひご覧ください。

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インタビューテキスト版について

樋口真嗣監督、尾上克郎監督、原口智生監督 鼎談(ていだん)
絵になるまち、福生。ロケ地としてさらに盛り上げる方法は?


まち歩きを通して、映画のなかにもたびたび登場してきた福生の魅力を探った樋口真嗣監督、尾上克郎監督、原口智生監督の3名。東福生駅からアメリカンハウス、横田基地第ニゲート前、ベースサイドストリート、『シン・ゴジラ』のロケ地になった茶室「福庵」…と市内を巡るうちに、思わぬ発見や、出会い、再会もあった。福生のまちは、監督たちの目にどのように映ったのだろうか。


独特のカルチャーが残るまち、福生

――まず久々に来た福生について、どんな印象でしたか?

樋口  福生は好きなんで、仕事以外でも意外と来ますね。16号線沿いのアンティークショップとか。あと実は今日訪れた石川酒造も自転車仲間のツーリングの最終目的地で、ここでみんなで乾杯していました。
あと「ジロ・デ・信州」というアニメーション業界の自転車のツーリング大会があって、その出発地が福生の多摩川のグラウンドなんですよ。朝早いので、前乗りして、福生の駅前にある米軍の人たちがよく泊まるホテルに泊まって。ミュージックバーみたいのがあるので、夜にちょっと時間が空いて、そこに入ると生バンドの演奏とかが始まって、楽しくなっちゃうんです。

――原口さんはいつぶりの福生ですか?

原口  今回は本当に20年ぶりぐらいの福生です。1980年から87年の頭ぐらいまで福生のアメリカンハウスに住んでいたんですけど、本当に久しぶり。当時に比べると整備されて、随分きれいになっているなと思いました。でも要所要所では、当時の風情だったり、店の雰囲気だったり、独特な雰囲気がちゃんと残っていた。

――尾上さんは?

尾上  僕が最初に来たのは、原口君と造形の若狭君(造形・特殊メイク・キャラクター製作の第一人者の若狭新一氏のこと)が福生に住んでいた頃。もう37から38年前の話です。それが生まれて初めての福生です。ちょうど僕らの世代は、アメリカのファッションとか米兵のスタイルとか、アメリカに対する憧れがまだすごく強くて。
米軍の放出品とかが、ここに来るとあったんですよね。たまに来たり、車で走ってみたりとかしていました。フェンス越しの道の風景がすごく好きだったんです。映画の仕事をやるようになってからも、たびたび福生に来てるんですよ。基地の周りを撮ってみたりとか、その周りの自然を撮ってみたり。だから東京の中では親しみ深いかなと思っています。

樋口  原口さんや若狭さんに限らず、当時は結構な数の知り合いが福生にいて。「福生行こう!」っていう動きがありました。

原口  当時、自分の師匠にあたる若狭さんが、ウルトラマンに出てくる怪獣を作る造形の工房を始めていて、最初は世田谷の千歳烏山のほうに工房があったんです。でも福生のアメリカンハウスが、とても広くて、安く借りられた。それにすごく自由な感じっていうことで移ってきたんです。

――家賃の値段は、当時としては結構高かったのですか?

原口  いや、安かったと思います。4万円でしたが、1980年でも安かったと思います。

尾上  よく考えたら一軒家だもんね。

原口  うん。一軒家なので、例えばちょっと遅い時間にクラフトの作業をしても、クレームや苦情も一回も来たことがない。近隣のハウスの中でも、ミュージシャンが音楽の練習をしたり、レコーディングをしたりしていた。都内にもかかわらず、そうした活動に非常に適している場所だった。工房とか美術、音楽をやる人たちが、「福生いいよ」って。


原口監督の想い出の地・アーティストの集まる福生

――当時は、アーティストも結構居たわけですか。

原口    多かったですね。近くに大瀧詠一さんが住まわれていて、何回も見かけましたね。福生駅と第二ゲートの間に、当時ぼろん亭って喫茶店があって、そこでコーヒー飲んだり、食事に行くと、よく居られましたね。
それと「エレクトリック・ウズ」。今日行ったら「Live Music Café  UZU」っていう名前になっていましたけど、あそこは昔も今も変わらないですね。

――UZUへ行かれて、尾上さん、樋口さんは、どんな印象を持たれましたか。

尾上  僕は昔、飲んだことがあります。全く変わってなかったですね。昔のアメリカンバーって、知る人ぞ知るで、実は好きな人はいろんなとこから来るんですね。県外とかからも来ますね。

樋口  俺はUZUは初めてです。いや、凄く良い雰囲気ですよね。

――原口さんが工房を構えていたころのアメリカンハウスはどんな感じでしたか?

原口    僕が住んでいたハウスは、八高線の踏み切り沿いのところにあった。

尾上    あの頃でも出来てから 30 年くらい経ってるわけで。すでに、古い。ても洋式便所て、それかまた 珍しかった。普通のアハートは、また和式たった頃てすから。

原口    中は広かったですね。僕は大学の後輩とシェアして、部屋が4つに、リビングとダイニングがあった。それにキッチンとバス・トイレ。バス・トイレは一緒でした。

尾上  美大の人たちが、アトリエを構えてましたよ。多摩美術大学の人たちが多かったんだよね。

樋口    まあキャンバスとかが置きやすい。

尾上  床がフローリングなのも、珍しかったんでしょうね。

樋口  SoHoのような感じだったのかな?

尾上  うん。SoHoなんて言葉はなかったけど、それ的に使える建物があって、周りに基地かある。そういう空気感も良かったんだろうね。もちろん今もそれは残っている。

原口    国道16号沿いもそうだし。ああいう風情のロケーションがあるんだったらロケに使いたいよね。

尾上    イメージが沸きやすいですよね。

原口: 当時は自炊もしたし、界隈の飲食店にも行って。国道16号線沿いのニコラス(現在の「NICOLA、ニコラ」のこと)は苦手だったチーズを初めて食べられた思い出の店。当時はまだ学生で、高かったけど、たまに行きましたね。

尾上: 学生には、敷居が高かったよな。
 

ロケ地としての福生、より多くの映画人を惹きつけるには

――ロケ地としての福生の話がありました。『シン・ゴジラ』の撮影でも市内の「福庵」を使われていますが、これから福生が更に多くの映画人に興味を持ってもらって、ロケ地として起用してもらうためのアドバイスを頂けますか。

尾上 やはりゲート前の国道16号線沿いの通りですね。使いやすいんじゃないかなと思った。昔通った商店街の通りも独特の雰囲気があった記憶があるんだけど、それよりもうちょっとバタ臭い感じがする。すごくいいなと思いました。あの通りは、ほんと魅力的なんですよね。

原口  びっくりしたのは、国道16号線沿いの並びの商店とか。ちゃんと商店街マップが要所要所にあった。ああいうのは昔無かったので。福生のカラーや色合いが気に入った人たちが、きっと店を新しくしたりっていうことも多いんだろうなって思った。あの飲食店とかまちの風情もあるところに工房が構えられると、生活も楽しいし、創造もできる。
当時、そう思いながら住んでいたわけじゃないけど、アートビレッジみたいな場所なんだなって感じてた。そういう魅力はもっと世の中に伝えたほうがいいんじゃないかなと思います。

樋口  叶わないことが前提だけど、横田基地のフェンスの向こう側に行ってみたいなって。福生市を通せば特例でここまでなら大丈夫みたいなことがあればいいなと思う。多くの人たちが魅力を感じて、映画の人たちが欲しいのは実はフェンスの内側の景色です。

尾上  フェンスの端っこを撮りたかったりとか、飛んでいく飛行機を撮ったりとか。そこら辺りができると、もう俄然、撮影のメッカになりますよね。

――『シン・ゴジラ』の撮影では、実際に撮られた福庵を含めて福生に来ましたが?

尾上  この辺にロケハンにも来ています。実際、横田基地の外側で撮っています。

――『シン・ゴジラ』のときの撮影で福生を使おうというのは、どなたが?

樋口  制作部がロケ場所として探してきた。台本上の設定では、あくまでも赤坂の料亭でした。台本に合ったイメージと、現実的なところで幾ら費用を払えるか。そうした折り合いが取れたんです。あとは今日見たああいう商店街とかを、うまく当時の全盛期のまんまに保全できないかなと。

尾上  そうですね。昭和30年代とか40年代。

原口  今日歩いてみてもちょこちょことその風情は残っていた。あのロケーションだと、時代をフィーチャーしたような作品でも使えるし、むしろ時代もリアリティーも全く関係ないタイプの映画だと、なおさら使いやすい。
でも、建物だけじゃなくて、やっぱりその周囲の地面だったり、すべての環境に統一感がないとなかなか使いにくかったりするんで。整備するときには、建物だけじゃなくて、地面、路面も含めて考えて頂いて。当時の空気感が出ると、もう圧倒的にロケ地として使えるんですよね。

樋口  まあ、そのためには舗装を剥がせって話になってくるんだけど。

尾上  ヨーロッパのまちで何がロケをしやすいかっていうと、建物と石畳の両方が保全されているんですよ。日本だと建物があっても地面が舗装されているがために、ロケができない。だけど地面が土に見える舗装だったら、そこはもう絶対ロケに使えますね。電柱がなくて、昭和のまちだったりしたら。

樋口  土色のアスファルトみたいな。

原口  ありますよ、そういうの。そういう風に見える。

尾上  電柱も、コンクリートもそれ風に見えることを徹底しておくと、ほとんど何も手を加えずに昭和のまちができたりします。そこら辺が、ヨーロッパは徹底していますよね。そういう風景を切り取れるような設計をしていて驚きますよね。それが日本には本当にないんですよ。

徹底して、地面から空まで含めた風景にしていくと、すごく面白いことになると思うし、みんなが福生に来ると思うんですよ。

――最後に、福生市に対して何かリクエストはありますか。

樋口    ロケを誘致するときに気をつけなきゃいけないのは、うちのまちだけでやろうとすると絶対駄目。例えば、あきる野市だったり、昭島市だったり、青梅市とか五日市とかと連携するといいと思う。

尾上  青梅のこっちの川でロケをやるので、合わせて福庵でも、みたいな組み合わせができる連携をとっていただきたいですね。窓口が別々だったりすると、すごくやりにくいのは確かにあるんです。ひとつのまちで誘致するより、地域として連携プレーでのロケ地誘致。広域連携の枠組みを作って欲しい。

尾上  隣町も全部巻き込んだりとか、他県ではこうだけどって紹介してくれたりとか、その辺の連携プレーは、首都圏は少ないなと思いますね。

樋口  『シン・ゴジラ』の時に大田区はよくやっていただきましたけれど。

尾上  だからこそ舞台が蒲田になったという部分もありますね。

樋口  もともと蒲田には戦前に松竹の撮影所があったので、映画のまちとしての土壌があるんです。映画のまちとして立ち上げたいけど、撮影所もないし、実績もない。そこにゴジラがやってきたら、「ぜひやりましょう」っていう話になった。

尾上  要はNPOみたいなものを作ってやらなきゃいけないってことなのかな。

樋口  本当は、作る側が働きかけなきゃいけない気もするんですよね…。

尾上    なるほど。作り手の側にも問題があるんですよね。いち会社に言われても動きづらいですもんね。今後に向かってさまざまなかたちで連携がとれればいいですね。

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