概要・歴史
概要・昭和15年からの歴史
概要・歴史
米空軍、横田基地は福生市・立川市・昭島市・武蔵村山市・羽村市・瑞穂町の5市1町にまたがり所在する本土(沖縄県を除く)では最大の米空軍基地であるとともに、在日米軍司令部及び第5空軍司令部がおかれている極東における主要基地であり輸送中継基地としての機能を有している。
また、現在は「再編実施のための日米ロードマップ」に基づき、航空自衛隊航空総隊司令部及び関連部隊の府中基地からの移転も行なわれ、平成24年3月26日には、正式に航空自衛隊横田基地の運用が始まり、米軍の輸送中継基地から、日本の防空及びミサイル防衛の機能を持った、日米が共同で使用する基地として態様を変えている。
滑走路を中心に南西側(福生市域側)が管理区域であり、東側(武蔵村山市域側)及び北西側(羽村市域側)が住宅地区を有する飛行場である。
昭和15年
旧日本陸軍の多摩飛行場として設置されたことからはじまり、終戦により昭和20年9月6日に米軍の進駐が行われ接収された。(接収当時の滑走路:約1,300メートル)
昭和21年8月15日
厚木に進駐していた第3爆撃飛行大隊(A-26後にB-26)が進駐してきた。なお、この日をもって公式に基地が開設され、米軍極東地図局が作成した地図中の「YOKOTA」から横田飛行場(基地)と称されることとなった。
朝鮮戦争 (昭和25年から28年)
基地は数次による拡張があり、さらに昭和30年に滑走路及びオーバーラン延長が決定され、北側に拡張用地及び航空障害物制限区域等約50万平方メートルが提供されて、昭和35年には面積約700万平方メートル、滑走路3,350メートルのほぼ現在の規模となった。
昭和44年末
立川基地の飛行活動停止に伴い空輸部隊(C-130)等が移駐し、翌昭和45年には米空軍最大の輸送機C-5A(ギャラクシー)が発着を始めた。
昭和46年5月
戦闘機部隊が沖縄等に移駐したため、この時点で戦闘基地としての機能はなくなり、基地は兵站基地的性格が強くなり、さらにベトナム戦争の激化に伴って、輸送基地としての重要性を増した。
昭和48年1月
関東空軍施設整理統合計画(KPCP)が決定。昭和48年から昭和53年にわたり住宅275戸をはじめ在日米軍司令部、病院、倉庫等が建設された。また、隣接の国道16号線拡幅による基地一部返還等が行われ、関連施設の移設工事や昭和54年から在日米軍施設の日本側経費負担による(いわゆる思いやり工事)施設整備が行われ、高層住宅やごみ処理施設等が建設された。
昭和49年11月7日
府中空軍施設から「在日米軍司令部」及び「第5空軍司令部」が移転し、基地はますます充実強化され、司令部機能も併せ持ったより重要な基地となってきた。
平成12年11月16日
日米合同委員会で滑走路の全面改修(面積:約24万平方メートル)をすることで合意され、工事には約66億円を投じ日本側の負担により、平成13年3月から平成14年6月末を以って終了した。
平成13年9月11日
ニューヨークの世界貿易センタービルなどを標的とした米国同時多発テロ事件の発生。以後、大型拡声機等を利用した即応運用演習が基地内で定期的に行なわれるようになる。
平成18年5月1日
「再編実施のための日米のロードマップ(最終とりまとめ)」が発表され、在日米軍及び関連する自衛隊の再編に向けた計画が示された。
平成20年3月
航空総隊司令部庁舎等の建設が開始される。
平成23年3月28日
航空総隊司令部及び防空指揮群の要員50名により移転が開始される。
平成24年3月26日
航空総隊司令部約220名、作戦情報隊約120名、防空指揮群約380名、気象及び警務関連部隊等約40名を以って、航空自衛隊横田基地の運用が公式に開始される。
このように、横田基地は、従来の米軍司令部機能と輸送中継機能を有する基地から、航空自衛隊航空総隊司令部と在日米軍の第5空軍司令部との併置により、日米共同統合運用調整所が設置され、日米双方の司令部組織間の連携や相互運用性の向上が図られ、日米が共同で使用する最重要施設へと態様の変化がなされている。
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