市の名前の由来

 

ページ番号1003147  更新日 平成28年7月28日 印刷 

地名は文化財・平安時代末期の福生村・福生は領土防衛の最前線・戦国時代の福生郷(ふっさごう)…など

地名は文化財

「福」という文字と「生」という文字を書いて「ふっさ」と読みますが、初見で読める方は残念ですがなかなかいません。難読地名の一つに数えられるわけです。呼び方も「ふっちゃ」「ふっつぁ」「ふっさ」などいろいろあります。
当市は、昭和45年(1970)に市制を施行し、福生町から福生市となり現在に至っていますが、福生町は旧福生村と旧熊川村が昭和15年(1940)に合併して誕生しました。この福生村の村名が現福生市の名前のルーツです。日本人の苗字の8割は地名に由来するといわれるほど、地名は私たちの歴史をひもとくためには大変重要な資料です。地名が文化遺産であるといわれる所以です。そこで、次に福生市の地名を中心に当市の歴史を探ってみます。

平安時代末期の福生村

「福生」という文字が歴史に登場するのは、11世紀後半です。鹿児島県甑島(こしきじま)の旧家に伝わった小川氏系図(福生周辺の土豪であったが、鎌倉時代に地頭として甑島に領地を与えられて移住する)によれば、寛治元年(1087)に武士団・西党に属する平山宗末という人物が福生村を源義家から与えられ、その後、12世紀半ばの保元3年(1158)には子孫の平山季重が保元の乱の恩賞として再び福生村を与えられたことが記されています。
このことから福生市域は、平安時代末期に西党(にしとう)平山氏によって開発が進められ、そして所有されていたことが想定されます。しかし、系図というものは史料的には信頼度が低く、ふっさ村という呼び方がはたして「福生」という文字で表されていたかどうか疑問の残るところです。むしろ後世、系図へ書き込んだものと考えたほうが自然かと思われます。

福生は領土防衛の最前線

室町時代・15世紀の福生周辺の有力な支配者として、青梅方面の三田氏と秋川方面の小宮氏がいました。小宮氏は武蔵武士団の一つ西党日奉(ひまつり)氏の一族で、支配した地域を小宮領と称します。勢力範囲は、中心地の秋川流域から多摩川の対岸の福生周辺まで含むものであったと考えられます。 つまり、福生は小宮氏の武蔵野方面進出最前線、もしくは北部方面防衛最前線といった軍事上、重要なポイントに位置していたわけです。

このような歴史的背景と「ふっさ」という呼び方から「福生(ふっさ)」の地名の成り立ちを考えた研究があります。この説によると、「ふっさ」とは北方から来る敵を防ぐ土地であって、それは北方を「ふさぐ」要衝の地を意味する呼び方です。「ふさぐ」は「ふたぐ」ともいい、「ふた」は文字で書くと蓋ということになります。『地名用語語源辞典』によれば、「ふた」は動詞「ふたぐ(塞)」の語幹で、塞がれたような地形をいうか、ふた(蓋)に通ずるといわれます。そして「ふた」を発音する場合、「ふ」にアクセントがつくと「ふった」となり、「ふった」を繰り返していったり、強くいったりすると「ふっちゃ」と聞こえるようになるといわれています。

江戸時代の地誌『武蔵名勝図会(ずえ)』は「福生」の呼び方を土地の人は「ふっちゃと唱う」と記していますが、現在も地域の古老たちは「ふっさ」を「ふっちゃ」「ふっつぁ」などと呼んでいます。このことからも古くは「福生」を「ふっちゃ」と呼んでいたのではないかと考えるわけです。

戦国時代の福生郷(ふっさごう)

やがて、16世紀に入ると小宮氏の支配地は、大石氏をへて小田原の北条氏に引き継がれます。16世紀は、北条氏が天文6年(1537)に川越城(埼玉県川越市)を落とし、武蔵国ほぼ一国の支配権を握った頃ですが、福生周辺では大石氏(多摩郡を本拠地とする武蔵国守護代)や三田氏(居城・勝沼城〈青梅市〉を中心に多摩郡北西部の多摩川上流域及び入間・高麗(こま)郡におよぶ地域を支配)などの在地土豪がいまだ勢力を保持しており、北条氏の支配はまだまだ盤石とはいえませんでした。

北条氏が、この地域と接触を持つようになるのは天文年間初頭(1532から)で、支配下におくのは弘治年間(1555から57)に入ってからです。その後、永禄4年(1561)、越後の長尾景虎(上杉謙信)が武蔵国へ攻め込み、相模国に侵入して北条氏の居城・小田原まであと一歩というところで兵を越後に引きます。このときの福生郷は上杉氏勢力の一翼をになった三田氏の軍勢などに侵略され、軍事的大混乱に陥っていたものと想像されます。

次の古文書は、滝山城主(八王子市)北条氏照が福生郷における軍勢の乱暴を禁止した制札です。「福生」という文字が現れる確実な史料と推定される古文書です。制札は禁止事項を公示する文書で、こうした制札が出された背景は、福生郷、及び周辺で戦闘など政治的に不安定な状況が生じていたからです。
「制札右、福生郷において、当方軍勢甲乙人等、乱妨狼藉あるべからず、若し、違背にては、討ち捨てるべきものなり、よって件のごとし。酉六月五日(永禄4年・1561)」
戦国時代の戦場は、農作物、家財はもとより、女・子供は奴隷狩り(人身売買)の対象となり、雑兵たちの略奪がほしいままになされていました。そこで、軍事的境目に位置する 村は自らの力で生命財産を守るため、両軍に年貢を半分ずつ納めて中立を確保したり、あるいは敵軍に大金を払って村の安全を買ったり、領主の城や近くの山に避難したりとたくましい試みを重ねていました。
この北条氏制札は、福生郷の安全を手に入れるために村人が大金を投じて滝山城主・北条氏照に発行してもらったものでしょう。

室町時代にはやる福神信仰(ふくじんしんこう)

福神は私たちに福徳をもたらす神々です。本来は山の幸・海の幸をもたらす神々として信仰されていましたが、時代の推移とともに人間の欲望(財宝・官位など)を満足させるための福神信仰の様相が濃くなり、室町時代には七福神が確立してきます。
福生郷の「福」、「生」といった文字もこの時代の福神信仰の流行のなかで考えると、「ふっさ」と呼ぶ地名に「福」、「生」という富と繁栄を象徴するめでたい文字を充てたと考えることができます。「福生(ふっさ)」という文字を用いた地名が出来たのは15、6世紀・室町時代ではないでしょうか。

福生市内出土の大量の埋蔵銭

室町時代は物質流通の進展が東国にも及んだ時代です。そのひとつの証しを貨幣流通の展開にみることができます。
鎌倉時代になると貨幣経済が全国的に普及、定着します。この間、中国から渡来した銭貨が多く流通していました。現在では、日本各地から大量の埋蔵銭が発見されています。一度に数万枚もの銭貨が出土することもありますが、数千枚の銭貨が出土する例は多く、そのたびに「埋蔵の謎」という見出しで新聞の紙面を賑わせています。出土地は、現在200か所程度が確認され、出土した銭貨の総数は300万枚を超えています。実際の埋蔵量はその数倍になるといわれています。

平成7年、市内の熊川地区で造園作業中に、地表下約1メートル程のところから中国・北宋時代(10から12世紀)の5千枚余りの銭貨が発見されました。出土した銭貨の種類は62種類、最古の銭は初鋳年が西暦621年の開元通寳(かいげんつうほう)で、最新の銭は初鋳年(しょちゅうねん)が1461年の琉球銭・世高通寳でした。 出土した銭貨は、唐・宋・明の中国銭を主体としていますが、種類別では明銭の永楽通寳が681枚と圧倒的に多数です。埋蔵された時期を推定すると、永楽通宝が埋蔵銭貨中1位を占めること、最新銭が琉球の世高通寳(1461)であるということから、16世紀前半、もしくは17世紀頃までの間ではないかと考えられます。

長者屋敷と長者堀

市内熊川地域には長者伝説が伝わっています。旧家に伝わる『神光仏言夢物語』と題する文献には、「昔、武蔵野に仁智年中に大野長者という福人があり、屋敷の回りに堀をほり、当村の「さる坂」より堀をほり、多摩川を引き込む」とあります。また、他の文献にも旧跡として長者ケ跡が村(拝島)の西北なる田圃(たんぼ)の中にあり、「往古、何人のここに居住せしにや、その由来を詳にせず」と記されています。熊川地域には長者堀跡と伝える遺跡も存在し、さらに付近の長者屋敷跡と伝えられている場所から開元通宝や永楽通宝という銭貨が多数が出土しています。

また、熊川の東に隣接する拝島(昭島市)に大日堂(拝島山密嚴浄土寺:はいじまさんみつごんじょうどじ)という古刹がありますが、同寺の縁起に戦国時代、北条氏直(ほうじょううじなお)の臣・石川土佐守が大日堂を建立した際、後世の補修費用にと本堂の地下に永楽銭一千貫を埋蔵したという伝承が残されています。
大日堂は熊川村にも近く、埋蔵銭種が永楽通宝という点でも長者屋敷の出土銭同様、注目される埋蔵銭伝承です。

福生村の草分け

清水但馬(しみずたじま)と野嶋兵庫(のじまひょうご)
『神光仏言夢物語(しんこうぶつごんゆめものがたり)』には清水但馬が福生村を、長田庄玄が川崎村を、野嶋兵庫が熊川村を開いたと いう開村伝承が記述されています。また、同書には野嶋兵庫が熊川村の氏神に礼拝の明神を祭ったとあります。礼拝明神とは現在の熊川神社であり、慶長2年(1597)同社建立の棟札に、寄進者の筆頭 に野嶋兵庫(助)の名がみえます。野嶋兵庫は、戦国時代の福生郷の有力地侍の一人だったと思われます。

また、熊川には古刹・真言宗真福寺があります。同寺は近世初頭(17世紀)まで修験の半沢覚円坊(はんざわかくえんぼう)が、多摩一郡の修験の支配の拠点としていたところです。その権益は熊野参詣、伊勢参宮や西国巡礼の導師までも含む大きなものでした。この修験先達・半沢覚円坊も大量銭貨埋蔵者の可能性を秘めるものの一人として重要です。
このように、16世紀頃の福生には村を開発する財力をもった土豪や、長者と呼ばれる富有な人、さらに民衆に強い影響力をもつ寺院などの姿があり、経済活動が発展していた様子を知ることができます。

まとめにかえて

東京の奥座敷・奥多摩の玄関口に位置する本市は、また西多摩地域の交通の要衝であることは昔も今も変わりません。このような地理的景観と歴史的背景のなかから「福生(ふっさ)」という地名は発生し たと考えられています。

特に、日本の歴史と文化が大転換したといわれる応仁の乱以後の15、16世紀は、まさしく福生を取り囲む歴史も大きく変化していたわけです。このような動乱の中で、「ふっさ」と呼ぶ地名に人々の繁栄と幸福を願って「福」という文字と「生」という文字をあてた先人の思いは大切にしなくてはなりません。地名はかけがえのない文化遺産です。

参考文献

  • 保坂芳春「麦打唄の周辺」(福生市史研究『みずくらいど16』) 福生市 1994年
  • 「福生市史」上・下巻 福生市 1994年
  • 福生市史普及版「福生歴史物語」 福生市教育委員会 1999年
    (福生市教育委員会社会教育課文化財係)

福生の名前の由来は、1960年(昭和35年)に刊行された福生町誌では、次のような説を採用していましたが、その後編さんした福生市史(1994年刊行)等では、上記のような見解をとっています。

旧来の説

名前の由来については、諸説あるが定説はありません。
そのうちの一つは、麻の古語である総(ふさ)・房(ふさ)からきたもので、麻の生える地-総生(ふさふ)から転訛を繰り返してフッサとなり、漢字を当てたとする説。
2つめは、アイヌ語説で、かつて東日本に住んでいたと考えられるアイヌ人が「湖のほとり」という意味の「フッチャ」が転訛を繰り返してフッサとなり、漢字を当てたとする説です。市内の遺跡地周辺に素晴らしい湧水がありました。
3つめは、「阜沙(ふさ)」からきたとする説。阜とは丘とか土山の意で、沙とは砂原、川岸の意があり、福生の地形や地質がそれによくあっていることから呼ぶようになったという説。
名前の由来には以上の三つの説が伝えられています。

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